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恐ろしい夢

恐ろしい夢を見ました。

きっと,柄にもなく朝練なんか始めたので,心の中にふだん存在しない力みや
身体の芯の疲れがあったからでしょう。ひさしぶりに冷たい汗をかいて
夜が明ける前に目が覚めてしまいました。

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気がつくとボクは7,8才の少年です。
いや,たしかさっきまで3才ほど年の離れた妹と一緒にいたはずですが,
いつのまにか2人の人格が溶け合ってしまって,ボクは妹でもある少年です。
(こういう人格の融合って,夢の中ではよくありますよね)

ちゃんと外から見たわけではないのですが,ボクと妹は塔のような形をした
屋敷の最上階に閉じこめられています。

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どうしてここに閉じこめられたのか,誰がこんな仕打ちをしたのか,一切わかりません。

ただわかるのは,ここはボクらが本当はいるべきはずじゃない場所だということ,
このままここにいれば,きっと恐ろしい事がふりかかるということです。

使者たちによれば(彼らが誰の「使者」なのか,またいつから使者なのかは
分かりません。これも夢の中ではよくあることですね),この屋敷には
下の階と上の階を行き来する階段はどこにもないのだそうです。

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そのかわりに,塔の最上階から薄暗くてよく見えない地下室までずっと続く
塔のガランとした内部を,最上階からぶ垂れ下がったロープにぶらさがって
登ったり降りたりはできるのです。使者たちはそう言います。

気をつけなければいけないのは,塔の最上階5階から垂れ下がったロープは
そのままでは重くて動かないので,ロープをしっかりとつかまえて身を預け,
思い切って塔の中の壁を蹴って,ロープが大きく揺れる反動を利用して
少しずつ降りてゆかなければならないということです。

ボクらは使者に教わった通りに,ロープを握って壁を蹴り,ぽっかりとあいた,
3階の廊下の入り口まで降りてゆきました。2階と4階は塔の部分から
廊下へ通じる入り口が塗り固められていて,そこから中には入れないのです。

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3階の入り口には乳母車がありました。
中には誰かがいる気配がしたのですが,よりいっそう暗い闇にまぎれて
その影が誰なのかよく見えませんでした。

ますます良くないことが身に迫る気配に押されて,ボクらはロープにつかまって
さらに下へと降りました。

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すると,1階へと通じる入り口からは,何人かの人がせわしなく行きかう気配がしました。

おそるおそる中を覗いてみると,恰幅のいい中年の女性が子供がゆうに入りそうな
大鍋を木のシャモジでかき混ぜていました。他にも野菜を切ったり,湯気が立ち上る
美味しそうな肉を大きな包丁で切り分ける老人がいるのです...

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安心して下さい。

その後に何も惨劇は起こりませんでした。

いや,むしろボクらは温かく歓迎され,清潔な着替えとお腹を満たすご馳走を
振る舞われました。

じゃあ,なぜ「恐ろしい夢」というタイトルにしたのでしょう?

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全部ではありませんが,この世の「恐ろしいことの大半」は自分の心の中にあります。

ボクらは恐ろしいことがいつでも起きる可能性を心のどこかでいつも信じているので,
希望よりも恐怖や不安を心のロープにして身を預けがちです。

未知のものは恐ろしい。会ったことのない人は怖い。そう思って生きています。
けれどそれは本当でしょうか?

恐ろしいものにおののく夢も含めて,
夢やファンタジーは,所詮は,「この世の存在をひきずった願い」です。
言いかえれば,夢やファンタジーの大半は,身体の不調や不快さから来る,
物理的な無意識のエレメントに大きな影響を受けています。

だから,ボクはあまり夢やファンタジーを信じません。
というか,あまりに無自覚な夢やファンタジーに興味がわきません。

たとえば,犬には犬の身の丈の夢やファンタジーしか見ることはできず,
犬が自分が抱えた無意識のエレメントを意識化しないかぎり,
本当の意味の超越的な希望や絶望やそこにはありません。

たしかに,犬には犬の言い分もあるでしょうが,犬が「自分は所詮は犬にすぎない」と
自覚して話をしてくれないかぎり,犬との間に「共感」が存在するとは言えません。

(犬の名誉のために言い添えますと,たいてい犬は人間よりもこの点で
 「自覚的」ですよね。だから,乱暴な犬はいても下品な犬はあまりいません)

今日のような,存在論的な意味で「恐ろしい夢」を見たとき,
ボクはいつも自分に言い聞かせることにしています。

 恐ろしいのは,夢を裏づける恐ろしい現実が今から起ころうとしているわけでは
 ないのに,清潔な着替えやお腹を満たすご馳走を用意してくれている人の
 温かい心づかいまで疑ってしまう自分の気持ちだ,と。

楽観的に生きるのは難しいですが,安易な夢やファンタジーに身を任せて
自己欺瞞のロープにぶらさがっているよりも価値があるでしょう。

それにしても,なぜ人間の心はこうも閉鎖的で悲観的なバイアスがかかっているのか,
ちゃんとした生物学的な説明を知りたいものです。

今朝は六甲山の尾根筋を走りながら,そんなことを考えていました。
練習になったのかならなかったのか,よく分かりません(笑)

(注)上の文の後半の意味が分かりにくいと思われた場合は,「犬」を
 あなたがふだん「この人たちの善意は理解できるが,どうしてそんなことを信じて
 いるのか理解できない」と思われている人たちと置き換えて考えてみてください。
 だから,「犬」でなくても良いのですが...
Commented by サカリキ at 2009-08-15 05:22 x
閉鎖的で悲観的なバイアスがかかっているのは、危険から事前に身を守るための、生物としての防御本能なのでしょうか・・・。

たしかに、
悪いことの想像はしやすいけれど、良いことの想像は難しい。
ですが、
安易に性悪説に立つことなく、性善説を胸に生きた方が人生がより豊かに、馥郁としたものになりそうですね。
そして、
自分自身、他者への温かい心遣いをすることができる人でありたいと思います。
Commented by ペダル at 2009-08-15 06:44 x
サカリキさん,変な妄想文(?)につきあっていただき,申し訳ありません(笑)
防御本能なのでしょうね,きっと。

でも一方で困っている人がいるときには助けてあげたくなる優しい面も
人間には少なからず備わっているのも事実で,それが希望ですね。

ま,こんなことをわざわざ書いているのも,自分が防御本能の強い「馥郁と」していない人間だなあと
痛感することが多いからですが(笑)
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by pedalweb | 2009-08-13 23:17 | 考えるヒント | Comments(2)