オシャレについて語るときにボクの語ること
2016年 07月 29日
ボク自身は理論も実践もまったく足りないけれど,以前から一度書いてみたかったトピックがあります。
それは「オシャレである」とはどういうことか?ということ。
この夏一着も(カジュアルもドレスも)服を買っていない野暮天のボクが語るか?という話題なんだけどね(笑)
老若男女を問わずオシャレな人を見るのは大好きだし,オシャレのメッカと目されるパリやミラノなどの
都会での観察経験も少しはあって,職業柄ハイティーンの若い人たちと日常的に接してきていて
(つまりファッショントレンドの受け手の一番若い層?),ボクなりにこういうことかな?と思い至った〈視点〉が
あります。
それを少し書いてみたいのです。
この写真は並みいるハリウッドスターの中でも「キング・オブ・クール」として名高い
スティーブ・マックィーンですが,なぜ彼が日本でも一部のメンズファッションフリークの間で
ファッションアイコンとして定着しているかを考えると面白いと思います。
彼の写真をつぶさに見ていくと,決してファッション巧者ではないのですね。シチュエーションで合う
合わないがある人。もちろんドレスではなくてカジュアルの場面でこそ引立つ人ですね。
上の写真は彼が最初の妻ニール・アダムズと過ごした邸宅でのワンシーンだと思いますが,
身につけているものは何ひとつとして奇をてらったものがないけれど,ひとめ見てとてもオシャレに
見えませんか?こんなにクリーンで品のある優雅な殺し屋いないって!?と思ってしまう(笑)
1963年頃の写真で,もう50年以上前のコーディネイトなのに,とてもモダンでとてもシャープ。
この「鮮やかさ」にこそ「オシャレ」の謎がかくれているとボクは思うのですね。
1) 個性的であろうとしてはいけない。
あくまで「ボクにとって」ですが,オシャレな人になりたいなら,「個性の発揮の道具として」服を着ては
いけません。
もちろん一度きりの人生で「私が私である所以(ゆえん)」を服飾の中に表現するのは,まったく個人の自由。
でも,それはたんなる「欲求の表現」であって,オシャレと呼ばれる境地に至るまでの,紆余曲折のひとつの
段階にすぎないと思うのです。
これをちょっと世俗的にアケスケな表現で言い換えてみますね(笑)
2) オシャレはセックスに似ている。
もちろん,性の愉しみ方は人それぞれですが,大きく分類すれば2つしかありません。
「自分さえ気持ち良ければいいセックス」と「相手を喜ばせて自分の喜びを倍増させるセックス」の2つ。
オシャレもそれに似ていると思うのですね。
「自分だけが気持ち良いオシャレ」と「見るひとの目を楽しませるオシャレ」。
もちろん一般に「オシャレ」と思われる人たちは,自分の個性を発揮して楽しむこと以上に出会う人が
自分を見て「目の保養」という悦楽を感じられることを大切にしているはずです。
3) 自分がオシャレかどうかは相手の瞳孔の開き方でわかる。
では,自分なりに出会う人の目を楽しませるべく工夫した服飾で出歩いたとして,そんなあやふやな
他人の悦楽をどうやって確かめるのか?
セックスとちがって(いや,ある種の演技が介入する余地があるという意味では同等か?笑)ダイレクトな
コンタクトがない他人の「目の保養」のある/なしなんて,どうやってわかるのか?
それが,わかるのですね。
ボクの場合はごくまれにですが,少しマシなかっこうで出かけたときに,向こうからやってくる見ず知らずの
人が(とくに同世代の男性が)ボクを見て一瞬キラッ!と目を輝かせることがあります。
「あっ!(そういうふうに着るのはいいな。オレにもそれくらいはできるな)」
こんな気持ちを一瞬相手に感じさせた経験はボクでもあって,きっと世の中のオシャレな人たちは
毎日いたるところでこの「キラッ!」を浴びているのではないでしょうか?
口はウソをついても目はつけないのですね。
素敵なコーディネイトの人に出会うと,誰もが直感的に感じとって,瞳孔を開くのだと思います。
逆に,自分ではガンバってオシャレをしているつもりでも,すれちがう人の誰ひとりとしてキラッ!という
視線を向けてくれないなら,それはどこか方向が間違っているよというヒントだと思うのです。
今回はスティーブ・マックィーンを例にあげて考えてみましたが,彼はきっとこの3つの点で
意図せずに強い魅力を発揮して,それを直感的に自分の中にフィードバックし,役者としての糧に
できる人だったのだと思います。
また折りにふれ,オシャレである〈意味〉を考えてみたいと思います。
それは「オシャレである」とはどういうことか?ということ。
この夏一着も(カジュアルもドレスも)服を買っていない野暮天のボクが語るか?という話題なんだけどね(笑)
老若男女を問わずオシャレな人を見るのは大好きだし,オシャレのメッカと目されるパリやミラノなどの
都会での観察経験も少しはあって,職業柄ハイティーンの若い人たちと日常的に接してきていて
(つまりファッショントレンドの受け手の一番若い層?),ボクなりにこういうことかな?と思い至った〈視点〉が
あります。
それを少し書いてみたいのです。
この写真は並みいるハリウッドスターの中でも「キング・オブ・クール」として名高い
スティーブ・マックィーンですが,なぜ彼が日本でも一部のメンズファッションフリークの間で
ファッションアイコンとして定着しているかを考えると面白いと思います。
彼の写真をつぶさに見ていくと,決してファッション巧者ではないのですね。シチュエーションで合う
合わないがある人。もちろんドレスではなくてカジュアルの場面でこそ引立つ人ですね。
上の写真は彼が最初の妻ニール・アダムズと過ごした邸宅でのワンシーンだと思いますが,
身につけているものは何ひとつとして奇をてらったものがないけれど,ひとめ見てとてもオシャレに
見えませんか?こんなにクリーンで品のある優雅な殺し屋いないって!?と思ってしまう(笑)
1963年頃の写真で,もう50年以上前のコーディネイトなのに,とてもモダンでとてもシャープ。
この「鮮やかさ」にこそ「オシャレ」の謎がかくれているとボクは思うのですね。
1) 個性的であろうとしてはいけない。
あくまで「ボクにとって」ですが,オシャレな人になりたいなら,「個性の発揮の道具として」服を着ては
いけません。
もちろん一度きりの人生で「私が私である所以(ゆえん)」を服飾の中に表現するのは,まったく個人の自由。
でも,それはたんなる「欲求の表現」であって,オシャレと呼ばれる境地に至るまでの,紆余曲折のひとつの
段階にすぎないと思うのです。
これをちょっと世俗的にアケスケな表現で言い換えてみますね(笑)
2) オシャレはセックスに似ている。
もちろん,性の愉しみ方は人それぞれですが,大きく分類すれば2つしかありません。
「自分さえ気持ち良ければいいセックス」と「相手を喜ばせて自分の喜びを倍増させるセックス」の2つ。
オシャレもそれに似ていると思うのですね。
「自分だけが気持ち良いオシャレ」と「見るひとの目を楽しませるオシャレ」。
もちろん一般に「オシャレ」と思われる人たちは,自分の個性を発揮して楽しむこと以上に出会う人が
自分を見て「目の保養」という悦楽を感じられることを大切にしているはずです。
3) 自分がオシャレかどうかは相手の瞳孔の開き方でわかる。
では,自分なりに出会う人の目を楽しませるべく工夫した服飾で出歩いたとして,そんなあやふやな
他人の悦楽をどうやって確かめるのか?
セックスとちがって(いや,ある種の演技が介入する余地があるという意味では同等か?笑)ダイレクトな
コンタクトがない他人の「目の保養」のある/なしなんて,どうやってわかるのか?
それが,わかるのですね。
ボクの場合はごくまれにですが,少しマシなかっこうで出かけたときに,向こうからやってくる見ず知らずの
人が(とくに同世代の男性が)ボクを見て一瞬キラッ!と目を輝かせることがあります。
「あっ!(そういうふうに着るのはいいな。オレにもそれくらいはできるな)」
こんな気持ちを一瞬相手に感じさせた経験はボクでもあって,きっと世の中のオシャレな人たちは
毎日いたるところでこの「キラッ!」を浴びているのではないでしょうか?
口はウソをついても目はつけないのですね。
素敵なコーディネイトの人に出会うと,誰もが直感的に感じとって,瞳孔を開くのだと思います。
逆に,自分ではガンバってオシャレをしているつもりでも,すれちがう人の誰ひとりとしてキラッ!という
視線を向けてくれないなら,それはどこか方向が間違っているよというヒントだと思うのです。
今回はスティーブ・マックィーンを例にあげて考えてみましたが,彼はきっとこの3つの点で
意図せずに強い魅力を発揮して,それを直感的に自分の中にフィードバックし,役者としての糧に
できる人だったのだと思います。
また折りにふれ,オシャレである〈意味〉を考えてみたいと思います。
by pedalweb
| 2016-07-29 00:15
| 暮らしの中のあれこれ
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